最近、常識では理解できない事件が多くなりました。
国内だけではなく、中国、北朝鮮、韓国という隣国の考えも、われわれ日本人の常識では理解できないことがあります。
しかし、常識はその人達がおかれた環境で培ったものであり、文化が違えば仕方がないこと。
このことは、我々の身近なことにも言えることです。
私も妻と育った環境が違うので、物事の捉え方、表現の仕方で、よく意見交換(いわゆる喧嘩です)をします。
問題は、その時に違った価値観を持った人とどのように接するかですが、やはりそれは相手を “ 認める ” しか解決はないような気がします。
自分を抑え相手を認めるということはかなり難しいと思いますし、私にとっても大きな課題です。
ところで、愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という知的障碍者のための通所施設があります。
ハンディのある人たちのために、自費で施設を運営されているのは77歳の塩見志満子さん。
その塩見さんの人生は、まさに試練に次ぐ試練の連続なのですが、壮絶かつ感動的な人生体験、そこから掴まれたものは、人を “ 認める ” という強さのようです。
よく生きてこれたなと思うほどの貧乏でした。
6人きょうだいの4番目で、「この貧乏な百姓だけは嫌だ。何としても働いて大学に行きたい」とずっと思っていました。
それで高校を卒業する時、担任の先生に「先生のような国語の先生になりたいです」と言うたら、即座に「なれん。おまえのところは貧乏だから大学には行けん」と。
昭和30年の話です。
その先生は続けて「それでもどうしても教師になりたかったら短大へ行け。いま女性の体育教師が不足しとるから、その資格がとれるかもしれん。そして愛媛に戻ってきて、わしと一緒に教員をやろうや」と言ってくださいました。
でもね、私は学校の授業で一番苦手なのが体育だったんです。
「先生、こらえて」と言いましたら、「そんな贅沢を言いよったら、教員になれんぞ。百姓して貧乏に耐えるのか」と言われて、東京の日本女子体育短期大学(現在の日本女子体育大学)を受験しました。
幸いに合格できましたけど。
学費は、私の思いを知った船員の兄が入学金を用立ててくれたんです。
授業料は近くの映画撮影所でエキストラのアルバイトをしたり、寮の掃除や炊事の手伝いをして納めたのですが、とても払い切れずに、後に東京で体育の教師をした1年半でようやく完納しました。
体育は苦手だったので、短大に入った1年目は「荷物をまとめて帰りなさい。あなたはここにおっても卒業できん」と何回も言われました。
だけど、不可能は可能になるもんなんですよ。
「負けてなるか」と思って毎朝4時に起きて6時までの2時間、誰もいない体育館でバレーボールやバスケットボール、跳び箱などの練習をしました。
そうしたら6ヶ月後には皆から褒められる学生になったんです(笑)。
その時、心の支えになっていたのは短大進学を勧めてくださった高校の担任の先生の言葉です。
先生はおっしゃいました。
「わしは30年間教師をしてきたけれども、得意な教科の教員になると、苦手な生徒の心が見えん。苦手な教科の教員になると、苦手な者の気持ちが分かる。そうするとクラスの生徒は、皆おまえの授業が好きになるじゃろう。騙されたと思ってそうしてみい」と。
それで、卒業後は体育の教師になりました。
学かんの立ち上げのきっかけの一つとなったのは私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で失ったことです。
白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。
そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。
ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、そんなこと言う子じゃないんですが「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。
主治医の先生は30代のとても立派な方で「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。
長男はその2ヶ月半後に亡くなりました。
長男が小学2年生で亡くなりましたので、 4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは「ああこの子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりはしない」と喜んでいたんです。
ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に沈んで亡くなってしまった。
長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。
近くの高校に勤めていた私のもとに「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。
子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。「どうしたんや」と聞いたら
10分の休み時間に誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、沈んでしまったと話してくれました。
母親は馬鹿ですね。
「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対に許さんぞ」という怒りが込み上げてくるんです。
新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら駆けつけてきました。
そして、私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、わしら2人が我慢しようや。うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」
私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。
だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も……。
普通の人にはできないことだと思います。
こんな時、男性は強いと思いましたね。
でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。
争うてお金をもろうたり、裁判して勝ってそれが何になる……。
許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないんです。
30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。
そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います。
塩見志満子(のらねこ学かん代表)『致知』2014年7月号より
嫌な対応をされると相手を責めたくなります。
しかし、責めれば責めるだけ遺恨は残ります。
認め、許すこと。
そういうことができる人達が生活する町はとても穏やかでしょうね。
“医療から街づくり”
体調がよくなると心も安定してきます。
ちょっと気持ちが不安定だなと思ったら、まずは体調管理から。
よい街づくりができそうです。
院長 野村