昨日、当院には世の中でいう監査が入りました。
それほど大げさなものではないのですが、きちんとした診療をしているかどうかというチェックをされるわけです。
昨年は開業後でいろいろ修正点があり、厳しいご指摘を受けました。
この歳になってお叱りを受けるのは本当に身に染みるのですが、今年はきちんと修正がなされており問題ないとお褒めのお言葉をいただきました。
うれしかったですね。
問題を修正しただけですので、当然のことと言えばそうなのですが、やはり自分では気が付かないこともあり、監査をしていただいたおかげでいろいろと学ぶことができました。
やはり、いろいろな人の助言をいただくことはとてもありがたいということです。
苦しい時ほど厳しい言葉に救われることがあります。
みなさんもそんな経験をされたことがあると思いますが、北陸地方随一の冠婚葬祭チェーンを育て上げたオークスグループ創業者・奥野 博さんも、会社が倒産して自殺まで考えられた時、お母さんの言葉に救われたそうです。
倒産が土台とは、自分の至らなさをさらけ出すようなものですが、認めないわけにはいきません。
戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、兄弟親戚に金を出してもらい、事業を興したのは30歳のときでした。
室内設計の会社です。
仕事は順風満帆でした。
私は全国展開を考えて飛び回っていました。
だが、いつか有頂天になっていたのですね。
足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
それが一挙に口を開いて。
「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」
これは今度出した本の書き出しの一行です。
倒産の原因はいろいろありますが、つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。
出資者、債権者、取引先、従業員と、倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
倒産は経営に携わる者の最大の悪です。
世間に顔向けができず、私は妻がやっている美容院の2階に閉じこもり、なぜこういうことになったのか、考え続けました。
すると、浮かんでくるのは、あいつがもう少し金を貸してくれたら、あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、あの部長がヘマをやりやがって、あの下請けが不渡りを出しやがって、といった恨みつらみばかり。
つまり、私はすべてを他人のせいにして、自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。
だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。
そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。
築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって全否定された悔しさがこみあげてくる。
すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。
その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。
(しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね)
いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、悟りと言えるのでしょうが、凡夫の悲しさで、徐々に這い出すしかありませんでした。
(徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか?)
やはり母親の言葉ですね。
父は私が幼いころに死んだのですが、その33回忌法要の案内を受けたのは、奈落の底に沈んでいるときでした。
倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、法事では行かないわけにいかない。
行きました。
案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、迷惑を被った人ばかりなのですから。
(針の莚(むしろ)ですね)
視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。
(そのとき、お母さんはおいくつでした?)
84歳です。
母が「いまどうしているのか」と聞くので、「これから絶対失敗しないように、なんで失敗したのか徹底的に考えているところなんだ」と答えました。
すると、母が言うのです。
「そんなこと、考えんでもわかる」
私は聞き返しました。
「何がわかるんだ」「聞きたいか」「聞きたい」「なら、正座せっしゃい」
威厳に満ちた迫力のある声でした。
「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」と母は言います。
心外でした。
自分のつくった会社です。
だれよりも愛情を持っていたつもりです。
母は言いました。
「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、やすやすと会社をつくった。やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。だから、子どもが可愛いのだ。あんたは逆子で、私を一番苦しめた。だから、あんたが一番可愛い」
母の目に涙が溢れていました。
「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。だから、あんたが一番可愛い」
母の言葉が胸に響きました。
母は私の失態を自分のことのように引き受けて、私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。
このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた自分の姿が浮き彫りになってくるようでした。
「わかった。お袋、俺が悪かった」
私は両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけでした。
『致知』1998年8月号特集「命の呼応」より
正直、昨年の今頃までは信念と称して意地を張った独りよがりな自分がいました。
そんな自分に多くの方が助言をしてくれました。
その中の一人に、自分の夢の可能性を信じ、本気になって気持ちを伝え続けてくれた人が、宮崎を離れることになったと、今日挨拶に来てくださいました。
彼に出会っていなかったら、彼が真剣に叱ってくれなかったら、今の自分はなかったでしょう。
彼とは必ずもう一度一緒に仕事がしたいと思っています。
そのためにも、もっとクリニックに愛情を注がなければいけないですね。
“ 出会いに感謝 ”
院長 野村