昨日の甲子園の決勝戦、最終回、久々に気持ちが高ぶりましたね。
昨日は午後休診で、往診が終わって帰ってきたら最終回で、ノーアウト1,2塁。
絶対バントだと思ったら、え?
でも勝ち負けでは得られないものがスポーツにはありますので、彼らはいい経験をしましたね。
そして野球といえば、イチロー。
彼も日米4000本安打の賛否両論があるなか、本数だけではないものを得たと思います。
「誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、8000回以上は悔しい思いをしてきている。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないか」
4000本安打という大記録達成の記者会見でイチロー選手が語った言葉です。
「小さいことを積み上げることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」
これは以前にもブログに書いた言葉ですが、常に人知れぬ努力を重ねたひとしか感じ得ないものでしょう。
そんなイチローは高校時代はどのだったのか?
愛知工業大学名電高校で当時監督をされていた中村豪氏が、当時のイチロー選手をこのように語っておられます。
愛知工業大学名電高校、豊田大谷高校で野球部監督を務めた31年間、部員たちに口酸っぱく言ってきた言葉がある。
「やらされている百発より、やる気の一発――」
いくら指導者が熱を入れても、選手側が「やらされている」という意識でダラダラ練習をしていたのでは何の進歩もない。
やる気の一発は、やらされてすることの百発にも勝る。
そのことを誰に言われずとも実践し、自らの道を開拓していったのが高校時代のイチローだった。
彼と初めて出会ったのは昭和63年、私が46歳の時である。
「監督さん、すげーのがおるぞ」というОBからの紹介を受けた私の元へ、父親とやってきたその若者は、170センチ、55キロというヒョロヒョロの体格をしていた。
こんな体で厳しい練習についてこられるのか、と感じたのが第一印象だった。
私の顔を真剣に見つめながら
「目標は甲子園出場ではありません。僕をプロ野球選手にしてください」
と言う彼に、こちらも「任せておけ」とはったりを噛ました。
700人以上いる教え子のうち、14人がプロ入りを果たしたが、自分からそう訴えてきたのは彼一人だけだった。
愛知には三強といわれる野球伝統校があるが、彼が選んだのは、当時、新興チームだった我々の愛知名電高である。
監督の私が型にはめない指導をすること。
プロ入りした選手の数が全国随一だったこと。
実家とグラウンドの距離が近かったこと。
3年間寮生活をすることで、自立心を養い、縦社会の厳しさを学ぶこと。
すべてあの父子の、熟考を重ねた末の選択であった気がする。
鳴り物入りで入部したイチローは、新人離れしたミートの巧さ、スイングの鋭さを見せた。
走らせても速く、投げては130キロ近い球を放る。
1年秋にはレギュラーの座を獲得し、2年後にはどんな選手になるだろう、と期待を抱かせた。
非凡な野球センスを持っていたイチローだが、練習は皆と同じメニューをこなしていた。
別段、他の選手に比べて熱心に打ち込んでいる様子もなく、これが天性のセンスというものか、と私は考えていた。
そんなある日、グラウンドの片隅に幽霊が出るとの噂が流れた。
深夜になり私が恐る恐る足を運んでみると、暗がりの中で黙々と素振りに励むイチローの姿があった。
結局、人にやらされてすることを好まず、自らが求めて行動する、という意識が抜群に強かったのだろう。
自分自身との日々の戦いの中で、本人が掴んでいくより他、仕様がないのである。
人知れず重ね続けた努力の甲斐あって、3年生になったイチローは7割という驚異的な打率を誇る打者に成長し、「センター前ヒットならいつだって打ちますよ」と豪語していた。
プロ入り後の活躍は皆さんもご承知のとおりだが、入団1年目に彼は、首脳陣からバッティングフォームを変えるようにと指示を受けたらしい。
「フォームを変えるか、そのまま二軍へ落ちるか」
と厳しい選択を迫られた彼は、フォームの修正を拒否し、自ら二軍落ちの道を選ぶ。
そしてその苦境の中からあの振り子打法を完成させるのである。
その後も評論家からは「あんなフォームで打てる訳がない」などと酷評されたが、結局彼は自分の信念を押し通し、球界に数々の金字塔を打ち立てた。
その根っこには、人並み外れた彼の頑固さと、野球に対する一徹な姿勢があるのだと思う。
今年、イチローは大リーグで日米通算3000本安打という偉業を達成したが、これも彼にとっては単なる通過点にしかすぎないのだと思う。
いまや世界のスーパースターになったにも関わらず、彼は毎年正月になると私の元を訪ねてくる。
その姿勢はどこまでも謙虚で少しも驕るところがない。
私がイチローを育てたと言われることがあるが、私は彼のことをただ見守ったにすぎない。
私のほうが逆に、彼に教えられたことばかりである。
「致知」2008年12月号「致知随想」より
今でもノーアウト1、2塁ならバントで、犠牲フライでも同点。もしかして勝っていたかもと思ったりもしますが、それは結果であって、あの時、監督が選手の力を信じて打たせたということが、大きな意味をもっているように思います。
あと一歩とどかなかった時の悔しさは、これからの彼らの人生に必ず大きな力になるはず。
イチロー曰く、それには、やはり小さなことの積み重ねしかないようです。
院長 野村