週末は、下の子の運動会でした。
広島からわざわざ来てくれた82歳の母は、飛行機に乗り遅れてしまったため、福岡空港のチェックインカウンターで、飛行機を止めてくれるようにお願いしたそうです。
当然ながら聞き入れてもらえず、渋々次の便で宮崎に到着しましたが、無事運動会の観覧も終わり、帰りは飛行機に遅れず、田舎に帰っていきました。
母には、毎年子供たちの運動会には来てもらっているのですが、来てくれた時には、私と二人で必ず早朝に義父の墓参りをします。
あえて二人だけで墓参りをするのですが、それには理由があって、たまにあっても喧嘩をする二人も、なぜか墓まで行く道中、墓を掃除する間、冷静に話ができます。
野村家のこれまでのこと、これからのこと、82歳になる母は一生懸命話してくれます。
今回も、開業1年目を迎えたことも踏まえ、母なりの経営学なるものを聞いた時には、母の存在の大きさを感じました。
「事業をすること、ひと山もふた山もあって当たり前。それがあるから成長するんじゃけえ。」
よく聞く言葉かもしれませんが、やはり45年間、事業を成り立たせてきた人の言葉には重みがあります。
松下幸之助さんも、「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。 成功するところまで続ければ、それは 成功になる」と言っておられます。
多くの人は、失敗が永遠に続くのかと暗澹(あんたん)たる気持ちになり、途中で辞めてしまう。
多くの人は、失敗が永遠に続くのかと暗澹(あんたん)たる気持ちになり、途中で辞めてしまう。
今回は、そうやって踏ん張る気持ちを作家の北方謙三さんのお話からお伝えします。
大学時代に書いた純文学が文芸誌に掲載されたのが、僕の作家デビュー。
学生の作品が文芸誌、それも商業雑誌に載るなんてごく稀(まれ)だったんで、まわりから天才だって言われましたよ。
自分でも「俺は天才だ!」って思ってたんで、それから10年間、アルバイトをしながら小説を書き続けたんです。
ところがその間、活字になったのは4本のみ、編集者に原稿を持って行っては返され、持って言っては返され…の繰り返し。
5年経って自分は天才ではないことがわかり、10年経って自分はその辺の石ころに過ぎないことがわかりました。
それでもう文学はきっぱりやめて、同級生のつてを頼ってどこかの会社に潜り込もうと決意したんですが、ふと駅前のおでん屋で若いやつと酒を飲みながら文学の話をする自分の姿が目に浮かんだんです。
「俺も昔は文学やっててなぁ…」なんて独りごちるオヤジ。
そんな自分を想像したとき、最後にもう一作だけ書いてみようと思ったんです。
その辺の石ころでも10年研いたら光るんだってことを世の中に見せることはできないだろうか?
それで自分の人生や読書体験を振り返ってたどり着いたのが、エンターテイメント小説だったんです。
最初のエンターテイメント小説は、横浜を舞台に退職刑事が活躍する物語。
それでも編集者に文学の尻尾を引きずっていると言われたんで、さらにそれを切って切って切り捨てていったら、3作目で賞を受賞したんです。
それからは注文が殺到するようになって、気がつけば“ハードボイルド小説の旗手”なんてもてはやされるようになっていた。
でも、ハードボイルドとは何なのか、実はまったく知らなかったんですよ。
作家は自分がもっている創造力を発揮できる場所を絶えず探し続けなければならない。
創造力が枯渇した時、作家は死ぬ。
“火事場の底力”って言われるけど、僕はいつもそれを出していると思っています。
200枚の締め切りを前にして最初の1枚を書き始める時、それが3桁になるなんて想像できない。
「ああ今度こそ、原稿を落とす」と思いながら、3枚目、4枚目…と書くうちに198枚目とかになっている。
人間、自分の力はこれまでと思った瞬間、終ってしまうもの。
火事場の底力を発揮し、どれだけ潜在能力を引き出せるかが勝負。
今の自分にあぐらをかいてしまったらおしまいです。
だからどんな時も自分に真剣に向かい合って、潜在能力が引き出せるような仕事がしたい、そう思っています。
『99人の小さな転機のつくりかた』大和書房
ふと気が付くと、今年は本厄の年。
どうも人に役に立っていないと感じたので、昨日厄払いに行ってきました。
そうしたら、神様からの声が聞こえてきました。
そろそろ許していただけるようです。
厄年は、自分に真剣に向かい合うことが必要な年なのでしょう。
みなさん、物事の節目節目は大切に。
必ず、意味がありますので。
院長 野村