前回は “縁” についてお伝えしました。
縁には、人もあれば、物もあり、機会(チャンス)もあります。
よくチャンスは、いつも巡ってきているのに気が付いていないだけと言われることがあります。
要するに、チャンスをチャンスと気が付けない自分がいるんです。
しかし、チャンスとわかっていて動けないことってあるじゃないですか。
私も、よくブレーキをかけてしまうことがあります。
では、なぜチャンスがあるのに動けないのでしょうか?
今日はこのことについて考えさせられるお話をご紹介します。
「惜しいもんだな、いい娘なのに」
通りすがりの男の人が二人、すれ違いに小声だが、はっきり言ったのが耳を打ちます。
何度も聞いている言葉なのに、やはり胸に答えるのです。
幼いときに重い病気で生死をさまよい、命はとりとめたものの、左足が不自由になったのです。
母は亡く、父と妹との生活でしたが家事に忙しい毎日で、和裁の先生に通いました。
暇があれば本を読んでいました。
そんな中、雑誌の読書の頁で一人の青年と知り合い、文通を始めました。
名古屋の書店に働く人で、彼は故郷の美しい山や河を書き送ってきました。
手紙は何と楽しいものでしょう。思うことが自由に書けます。
足が悪いことも気にかける必要もなく、ふつうの娘のように明るくのびのびと思うままを書くことが出来るのです。
月に二、三度の文通は一年近く続き、私の淋しい生活の中の小さな灯りのようでした。
ある日の手紙にぜひ近いうちに逢いたいと言ってきました。
とても逢う勇気などないので和裁が忙しいとか色々な理由を書き送りましたが、折り返しどうしても逢いたいという熱意に負け、考えた末、思い切って町の小高い公園で会うことにしました。
名古屋からの駅も近くで、分かりやすい場所ですし、公園の入口のベンチで午後一時の約束でした。
日曜日、私は約束の一時間も前に入口から遠いベンチに座っていました。
12時半頃、小さい本を小脇にしてゆるい坂道をくる人がいます。
すぐ彼だと分かりました。
私の勇気は消えてしまって…
ベンチから立ち上がることも出来ず、固くなったまま時折彼の方を見やります。手紙から受けた感じそのままの生真面目そうな人でした。
どうしても立ち上がれませんでした。
足の悪い私を見たら、彼はどんな顔をするかと、それが恐ろしくて石のようにベンチに座ったままでした。
長い時間が過ぎて三時頃になると、彼は静かに坂道を帰って行きました。
「足が悪いので、お逢いする勇気は出ませんでした」
とその日の夜、お詫びの手紙を書きました。
二、三日して本が送られてきました。
石川啄木、私が読みたかった本でした。
「この本を直接あなたに差し上げたかった。明日、くにに帰ります。 兵隊検査ですがおそらく入営となるでしょう。その前にぜひ逢いたかったのです。遠くのベンチに若い娘さんらしい人を見ました。木の陰で着物の紫しかわかりませんでした。多分あなたでしょう。残念です。長い間、楽しい手紙ありがとう。のびのびとした文章の中に、強く明るい性格を知っているつもりです。足の悪い事などに負けず、強く生きてゆける人だと信じます。さようなら、ありがとう」
私は胸がつまり涙をこぼしました。
せめて短い時間でも話して、心から、さようならを言いたかった。
その後、満州の彼から時々手紙が来ましたが、絶えてしまってしばらくたって、妹さんから一通の手紙を頂きました。
「戦死した兄の遺品の中に貴女様の手紙がありました。悪いと思いつつ読ませて頂きました。若くして亡くなった兄の青春を、ひそかに彩って下さった事、妹として嬉しく心からお礼申し上げます」
涙が枯れるまで泣きました。
忘れることのできない思い出です。
「心に残るとっておきの話」潮文社より引用
チャンスがやってきても、上手くいかなかったらどう思われだろう、また自分に自信がついたらなどと、いかにもまたチャンスが訪れてくるかのような勘違いをしてしまう。
しかし、チャンスはそう簡単にはやってきません。
“やらずに後悔するなら、やって後悔する”
何かためらうようなことがあった場合は、とにかく “ゴー” です!
院長 野村