そう言えば、最近夫婦喧嘩をしなくなったなあと思います。
私は、どちらかと言えば、他人にはやさしく身内には厳しいので、喧嘩になるのかもしれません。
しかし、冷静になると反省することも多々あるんです。
妻は、私が全く反省していないと思っているかもしれませんが・・・
ブログを読んでいただいている方はもうすでにお気づきだと思いますが、私は人生論的な本を好んで読んでいます。
それは、おそらく自分に足らないものがそこにあるからだと思います。
今日は、夫婦喧嘩について “ありがとう” の言葉の重要性を説いておられる小林正観さんの言葉をおかりすると、
夫婦喧嘩をする人は、これは自分の妻だ、これは自分の夫だ、という誤解から生じています。
その人は自分の身内で家族であるから、何をいってもいいと思っているのです。
でも、仮に隣のおじさんが毎月給料を運んでくれていると思ったら、文句を言ったりしないでしょう。
「どこのどなたか存じませんが、毎月、毎月私たちの家族が食べられるようにしてくださって、ありがとうございます。経済的に困らないようにしてくださって、ありがとうございます」
とただ手を合わせて感謝するしかありません。
「たまの休みぐらいは、子供のキャッチボールの相手をしてよ」
と疲れている夫に向かって、こう言ってしまう妻がいるようですが、隣のおじさんだったら感謝しかないのに、自分の夫であると、なぜそんなにイヤみばかりを言ってしまうのでしょうか。
夫の側からすると、どこのどなたかわからないおばさんが、朝知らないうちに現われて、食事をつくってくれる。
朝起きると味噌汁から湯気が立ち上っている、夕方帰ってくると夕食を用意してくれているなんていうことは、有り得ないことです。
他人だったら、手を合わせて感謝するのに、なぜ夫や妻には感謝しないのでしょうか。
それは、家族という名の甘えでしょう。
原点に立ち戻って、というより、原点よりずっと前のほうまで戻って、夫も妻も、「この人は、もともとは他人だ」ということを認識する。
そして、この他人の男性が私に対して、たくさんのことをしてくださることに感謝。
他人の女性が私に対して、たくさんのことをしてくださることに感謝。
『すべてを味方 すべてが味方』 小林正観 三笠書房
夫婦の間だけでなく、会社でも、親しい友人でも、人間関係には、必ず甘えが存在します。
慣れてしまうと、お礼のひとつも言えず、逆に嫌味を言ったりすることがあります。
会社では、給料を払っているのだから、職員は言われた仕事をするのは当たり前。
夫だから、仕事をしてきて当たり前。
妻だから、家事をして当たり前。
友人だから、話を聞いてくれて当たり前。
「当たり前」の出来事は、本当は奇跡のような有りえないことかも知れません。
そう得心したとき、そこに感謝が生まれます。
当たり前の幸せに、心から感謝できる人でありたい。
私は、そんな生き方をしてみたいと思っています。
院長 野村