当院には、全盲の高齢の女性の方が通院されています。
しかし、すごく明るくて、マッサージをされておられるので、腕の力はすごいんです。
一度、診察室で手のマッサージを受けた時の強烈さは今までにないものでした。
以前、その方に、「自宅での生活は大変ではないですか?」とお聞きしたことがあるのですが、はっきりと、「同年代の方よりも、私はしっかり生活できている自信があります」と断言されました。
20歳のころから全盲になり、そのハンデを受け入れながら、今まで生きてきた自分自身に誇りに感じておられる言葉でした。
世の中には、さまざまなハンデというものがあります。
しかし、それをどうとらえるかは、その人次第。
今日は、ハンデをハンデと思わない生き方をした方のお話しです。
13歳の夏、右耳を激痛が襲った。
耳の奥からは異臭を放つ膿(うみ)があふれ出ていた。
診断結果は「真珠腫性中耳炎」
中耳炎を繰り返すうちに組織の一部が真珠のように増殖し、耳の周りの骨を破壊する病気だ。
手術で患部を除去。
足の皮膚を移植して鼓膜の形成手術もしたが、聴力は戻らなかった。
滝川広志さん(49)の右耳は、今もほとんど聞こえない。
周囲に打ち明けると、誰もが「うそでしょう?」と驚く。
難聴のハンディを全く感じさせないからだ。
「広志君、右耳がだめでも左耳がある。何とかなるよ」
そう笑い飛ばした母の強さと優しさに支えられた。
熊本市で生まれた。
幼いころに両親が離婚。
病院の看護助手をしていた母と1歳上の姉の3人家族。
生活は苦しかった。
普段の食事はご飯とおかず1品。
月に1度、80円のラーメンがごちそうだった。
「貧しかったけど、それが普通だと思っていたし、不幸だとも思わなかった」
ただ、子どもなりに家にお金がないことは分かった。
小学生のころから自覚症状があった中耳炎を放置したのも、母にお金のことで心配をかけたくなかったからだ。
右耳の手術後、新聞配達を始めた。
母を助けることができるし、欲しいものを買うこともできる。
初めは夕刊を配り、やがて朝3時に家を出て朝刊も配った。
幼いころから中古の白黒テレビが姉弟の宝物だった。
声が筒抜けの2軒長屋。 音量を絞り、テレビにかじりついた。
「サインはV」「柔道一直線」「8時だョ!全員集合」・・・。
歌番組では振り付きで歌手をまねし、姉と批評し合った。
ドラマでは動きに合わせて勝手にせりふを重ねる「当てレコ」に興じた。
はまったときは2人で笑い転げた。
そんなテレビ遊びから生まれた「ものまね」が、目立たない存在だった姉弟を変えた。
中学校の教室。
人前でものまねをする快感を知った。
姉がまず人気者になり、広志さんも続いた。
「滝ちゃん、よか」「よかばい」
教室で、近所のスナックで喝采を浴びた。
歌を覚えるにも、不自由さは感じなかった。
右耳が聞こえない分、左耳に意識を集中し、目で観察した。
「難聴がものまねには良かったのかもしれないですね」
母譲りの楽天的な性格が、その後の人生も切り開いてゆく。
広志さんは今年、芸能生活30周年を迎えた。
芸名は「コロッケ」
3月には「長年の夢だった」という博多座(福岡市)の舞台に立つ。
人情喜劇とものまね歌謡ショーの1ヶ月座長公演。
「あきらめなかったからここまで来れた。ようやく九州出身の芸人として故郷に認めてもらったような気がします」
滝川家の家訓は「あおいくま」
焦るな、おこるな、威張るな、腐るな、負けるな、の頭文字だ。
幼いころ母が部屋に張り出した教えを胸に、謙虚に芸を磨く。
西日本新聞 2010.01.28
あることが当然と思う。
けれど、無くなってはじめて、その大切さに気づく。
もの、お金、時間、信頼、健康、そして、大切な人・家族。
何かを失った時、それは、大切なものとの出会いかもしれません。
今の世の中、ニュースを見ても、その多くは失うものばかり。
我々が何かに気付くまで、失うことが続くのでしょう。
それに気付くためには、投げ出さず、丁寧に生きること。
コロッケさんは、笑いではなく、そんな生き方を届けてくれているように感じます。
私も、今まで多くのものを失ってきました。
その中でも一番多く失ったものを、今、取り戻したいと思っています。
ちなみに、お金じゃないですよ・・・?
院長 野村