今日は18歳年の離れた兄の誕生日です。
兄が高校3年生の時に私が生まれました。
その当時、兄は浪人してでも医者になりたかったようですが、私が生まれたことから、弟のために無理はできないと父から言われ、兄は獣医になりました。
次男と私の年の差も16歳であることから、長男の兄は、「お前が生まれたのはアクシデントだ」と言っていました。
アクシデントでたまたま生まれてきて、兄の人生までくるわせた私なのですが、物心ついた保育園の頃からは、よく街に食事に連れて行ってくれたり、田舎にはないパチンコやサウナにも連れて行ってくれたりしました。
そして、一緒にいると「息子さんですか?」と言われるたびに、「いえ、18離れた弟です」と、驚く周りを嬉しそうに見ていました。
兄は、アイデアマンで、社交的な人だったので、お花の先生だったり、社交ダンスをしたり、様々な分野の人たちと繋がりがありました。
つくば万博では、マイクロマウスロボット世界大会で優勝!
エンジニアでもない兄が、チームの代表となって世界大会の選手宣誓をしたり、TVのドキュメンタリー番組に出たり。
体重も100㎏以上あった頃は、パンチパーマをかけて、ヤクザに間違えられたこともあり、とにかく変わった人でした。
そんな兄も、生活習慣に問題があったのか、腎臓を悪くし、40代から透析を受けるようになり、仕事をしていたので、夜間透析を週に3回受けていました。
今までやりたいことをやってきた人だったし、時間的にも体力的にも制限がきて、辛い思いをしていたと思います。
だから、よく義理の姉や次男と喧嘩もしていました。
でも、決して私には怒ったこともなかったし、何か私がしようとすると、自分のことのように嬉しそうにしていました。
私が高校3年生の夏、父が亡くなり、突然、医者になりたいと言い、浪人させてほしいと母に言った時、「お前の人生だから、やりたいことをしなさい」と言ってもらえた私に、「お前はいいなあ、俺は弟が二人いるからと言って、許してもらえなかったしなあ」と、羨ましそうに言ったことがありました。
しかし、さすがにそう簡単には国立の医学部には入れない状況だったので、2浪目の時には、母も精神的にきつかったのか、兄と相談して、これ以上は国立は無理かもしれないと、兄の動物病院を担保にしてまでもお金を借りて私立に行かせようと決めていたようです。
結局は、母にも兄にもギリギリのところで迷惑をかけずに済んだのですが、自分の子供たちもまだ小さかったのに、そこまでして弟の夢をかなえようとしていた兄は、私に何か託していたものがあったのかもしれません。
私の結婚式では、父親代わりにスピーチをして、“夫婦はニコニコピンピン”と短い挨拶をして、相変わらず変わっているなあって思いましたが、私の挨拶の時に、父や母への感謝の想いを伝えた時には、誰よりも涙を流していました。
その後、心臓も悪くし、私自らカテーテルで血管治療をしましたが、手術が必要な状態だったため、何とか説得してバイパス手術を受けてもらいました。
けれど、医者の立場から、10年元気でいれるかどうか、母や兄の子供たちにはその事実は伝えていました。
4年前の3月1日、私が兄の住む街からほど遠くない病院での研修会に参加し、そのまま新幹線で帰ろうとした時、上司からたまたまもらったタクシーチケットを見て、せっかくだから兄に会って帰ろうと、タクシーの運転手さんに「このチケットで次の駅まで行けますか?」と聞いたところ、「ちょっと足らないけれど、メーター止めますから行けますよ」と快く言ってもらえました。
すぐに兄に電話して、近くの駅まで行くから、一緒にご飯でも食べようと伝え、久しぶりに会うことになりました。
駅の商店街の食堂で、私は海鮮丼、兄はうな丼を食べながら、体調のこと、仕事のこと、いろいろ話しました。
そして、あと2か月したら、今日行った病院で3か月研修を受けることになったと伝えると、「あの病院で働くのか?」と、少し嬉しそうにしていました。
日本でも有名な病院でもあり、私が近くに来てくれることも嬉しかったのかもしれません。
兄と二人だけで食事をするのは何年ぶりだったろうと思いながら、今までは払ってもらってばかりいた食事代も、その時は私が払いました。
会計をした後に、お店を出ると、あまり足腰の強くない兄が、遠くまで歩いて行っているのを見つけ、意外と元気になったなと思いました。
兄は、「コーヒーでも飲みに行くか?」と言いましたが、お土産を買わなくてはいけなかったので、「新幹線の時間が近いから」と言って断りました。
兄は、「そうか」と言って、なんだか寂しそうに帰っていきましたが、その時の兄の歩く後ろ姿は、さっきの元気そうな姿とは違う何か弱々しいもので、私も何かが引っかかったような気持ちで、兄を見送りました。
それが、私が兄を見た最後の姿でした。
2か月後、兄は仕事をしながら突然倒れ、この世を去っていきました。
兄は角膜移植のドナーに登録していたらしく、角膜を切除した後に、目から血が流れて止まっていない状態が続いていたので、私が兄に会えた時には、母が兄の眼から血が流れないように一生懸命目を押えながら、「よく頑張ったな」と泣いていました。
あれから4年、私の人生は大きく変わりました。
私が生まれてきたために、兄の人生も大きく変わったと思います。
今日は、兄が生きて迎えたかった59歳の誕生日です。
父も59歳、大好きだった義理の父も59歳で亡くなりました。
今日はなぜか私の人生を変えた3人が並んでいるような気がします。
大切な人達が生きたかった今日という日。
兄の人生を変えてでも、今生かされている自分の生き方を、今日は見つめなおしてみようと思います。
院長 野村