今年もカープは絶好調です。
昨日マジックが10となり、ほぼ優勝は間違いないでしょう。
今年は前半で決まった感があり、おかげで昨年の盛り上がりは何処へと言わんばかり、今年の私のカープ愛は薄れてしまった感じがします。
私はなんでもそうですが、ワクワクしないとダメなんです。
余裕があるとなんだか盛り上がらないんです。
だからいつも危ない橋を渡ろうとするのかなあ?(笑)
みなさんも感じられていると思いますが、スポーツで圧勝する試合は、実はワクワクしないじゃないですか。
勝っても負けても、接戦、逆転、このギリギリ感が楽しい!
多くの人は、簡単にとか、すぐにとか、楽にものごとが進むことを望みますよね。
でも、人生も一緒で、楽勝の人生はあまり成長はないんじゃないかって。
今日は楽勝ではない生き方について、直木賞作家である浅田次郎さんのお話をご紹介します。
浅田さんは、小学校の頃から小説家を目指していた人です。
そして愚直なまでの努力を積み重ねて、その夢をかなえた人です。
高校生の時、同じく小説家を目指す心から尊敬する先輩に「お前は才能がない。小説家にはなれないよ」と言われます。
ショックでしたが、才能がないのは、その通りだと思ったそうです。
それでも、その先輩の教えの通り、原稿用紙に憧れていた三島由紀夫の小説などを書き写す修業をしていきます。
大学には行かず、職を転々としながらも、その修業を続けました。
実質3時間以上は、毎日机の上の原稿用紙に向かったそうです。
その一方で、書いた小説を様々な文学賞に応募しますが、ことごとく落選します。
その間に、書いては煙と消えた原稿用紙は何万枚にも及ぶそうです。
そういう生活を10年以上続けていました。
彼が30歳を過ぎたころ、ようやく二次選考に作品が残りました。
うれしくて、うれしくて、飛び上がって、その出版社の前まで行って手を合わせて感謝したそうです。
哀れ、その作品も結局ボツになるのですが、その小説の主人公の名前が「浅田次郎」。
それ以来、彼はこの名前をペンネームにします。
自分の作品がはじめて活字になったのは、35歳のとき。
はじめての単行本が出版されたのが、40歳のとき。
小説家を志してから悠に30年もかかったのです。
ですから、いままでまったく相手にされなかった大手出版社から、エッセーの連載の話が飛び込んできたときには素直に信じられず、借金取りが自分を誘い出すワナだと本気で疑ったそうです。
しかし、その後、『メトロに乗って』で吉川英治文学賞受賞。
『鉄道員』で直木賞を受賞。
いま最も人気がある作家のひとりとして活躍中なのです。
浅田さんはずっと「小説家になりたい」という夢をあきらめませんでした。
書いた作品が、落選しても、落選しても、書き続けました。
やはり才能がないのかと落胆する日も書き続けました。
あきらめずに続けたからこそ、自分の夢をかなえられたのです。
「みんなから馬鹿扱いされても、だからといって自分の信念をあきらめてはいけない」(浅田次郎)
「人生がうまくいく」48の物語 成美文庫 メルマガ「人の心に灯をともす」より
実は、今年はカープの代わりに広陵に盛り上がっていました。
準優勝でしたが、中村奨成選手のホームランはすごかったですね。
しかし、彼のバッティングよりも彼の野球への想いに感動しました。
彼は、3歳の時に両親が離婚しています。
その後、お母さんがフルタイムで働き、彼と妹さんを育ててこられました。
小学校一年から始めた野球が大好きで、お母さんとキャッチボールを繰り返し、決して楽ではない生活の中で野球道具をそろえてもらい、中学校に入ると、時間さえあれば、バトミントンの羽根をお母さんに投げてもらいながら打撃練習をしていたそうです。
彼は、甲子園に行く前に「お母さんのために甲子園でホームランを打ちたい」と言っていました。
そして、甲子園の新記録を塗り替えました。
しかし、彼の野球へ想いはお母さんだけではなかった。
決勝での9回裏の打席で、彼はバッターボックスに立った時、彼の心の中には控えの選手の顔が浮かんだそうです。
“ここまで来れたのは、一緒に野球をやってきた仲間がいたから”
この気持ちは、彼が育ってきた環境でしか培われないものです。
決して楽ではない環境が人を育てる。
当院も先日開院6周年を迎え、7年目に入りました。
今年はラッキー7の年!
しかし、これから考えていることからは、どうも楽にはなれそうもありません。
結果を出さなければ何を言われても仕方がありません。
でもそれが自分を成長させるために必要なんです。
それが生きていく上で大切なコツかもしれません。
今ある環境、家族、友人、スタッフ、そしてご縁のある方々に感謝!
これからも宜しくお願いします。
院長 野村