先週、突然愛車を “手放し” ました。
もともと特殊な車で、毎年これからの季節には活躍する車だったのですが、子供達も大きくなり、乗りにくくなってきたし、今年は車検だなと思っていたら…
決めて2日後には彼女は去って行きました。
次の車も用意していない中での突然のことだったので、最初は不便になるかなあって思っていたのですが、数年間ほったらかしにしていた自転車を直して乗ってみたり、雨の日は妻に送ってもらったり、近いところは歩いてみたり、結構なんとかなるものです。
しかも、車がないおかげで、時間や自分の体、そして人との関わり方が変わってきたので、今までは感じなかったものを感じたり、見えなかったものが見えたりと、意外と良い“福”作用ばかりです。
妻とは、日々お互いのスケジュールを確認し合って、時間調整をしながら1日の日程を組んだりして、おかげで隠密行動?がとれなくなりましたが、妻からの信頼を回復するためにはバッチリです。
しかし、こういった状況になって考えさせられることもあります。
「今の世の中、便利になりすぎたのかなあ」って。
どんどん文明が発達していって、どんどん便利になってきて、どんどん楽になってきて、良い部分もあるのは確かですが、失われているものもあるような気がします。
インターネットも便利ですが、自分ひとりで何でも調べることができる一方、あまりにも情報が多いので、何を信用していいのか分からなくなって、挙句の果ては、知りもしない赤の他人の口コミを信じて買い物をしたり。
車も地方ほど所有率が高いので、歩いて行ける距離でも車を使ったりするため、運動不足で太ったり、病気になったり。
それを解消しようと、自宅の中には、様々な通信販売の運動機器がズラリ!(以上、我が家のことです)
そう言えば、がばいばあちゃんで有名なB&Bの島田洋七さんの講演会を聞きに行った時のお話なのですが、B&Bが全盛期の頃、ものすごい稼ぎで、押入れには何千万と現金があり、洋七さんはずっとこの生活が続くと思っていたそうです。
そうしたら、がばいばあちゃんから、「しばらく遊んで金使ってこい」と言われて、洋七さんは数年間遊び呆けていたら、スッテンテンになってしまいました。
お金がなくなって困った洋七さんは、がばいばあちゃんに「ばあちゃん、金なくなってしもうたよ」と言ったら、その時、こう言われたそうです。
「あのな、山の上まで来たら、今度は麓まで降りて来い。そしたら、次に登る山の高さがよくわかる。いつまでも上にいたら物事は見えなくなるんじゃ」
この言葉、ものすごく深いものがあります。
あえて “手放す” ということ。
口コミで120万部突破の大ベストセラーとなった「ツキを呼ぶ魔法の言葉」の著者である五日市剛さんの著書の中にも手放すことが述べられていました。
新潟県のある主婦の方から、こんなお葉書をいただきました。
「失う」のではなく「手放す」
若さも 健康も 愚かさも 愛しさも 何もかも…
「健康を手放す」ことが「不健康になること」だったり、「若さを手放す」ことが「老いること」なのではなくて、それは「執着」しないことだ、と気づきました。
自我を手放すとでもいうのでしょうか。
健康も若さも愚かさも愛しさも何もかも手放した状態。
それは一番「神」に近い状態では…
あるいは「生まれたての状態」
限りなくピュアになること、なのかもしれませんね。
そんな気持ちで生きられたら、何のストレスもなく、幸せだろうなぁ…と思います。
「人は自分以外のもののために生き始めたときから、本当の人生が始まる」という言葉があります。
恐らく我々は、誰かのために何かを一生懸命しているとき、しかも見返りを一切期待せず、それを心から喜んでしているときに、いちばん自分を手放せるのではないだろうかと思います。
本来、人というのは、自分を本当に必要としている何かのために生きたいものです。
『しあわせへの気づき』 五日市 剛 とやの健康ヴィレッジ
いろいろ人生には苦しみがありますが、苦しみを作り出す最大の原因の一つは、“執着” だと思います。
私達は、重要なことでも、ささいなことでも、好き嫌いを抱くことがあります。
例えば、身につけるモノだったり、食事だったり、物事の考えだったり。
手放すのが最も難しい執着の一つは、物の見方、信念、判断に対する執着だと思いますが、新しく拡大的な考え方ができるかどうか、私達は常に試されています。
みなさんも、今までの人生で何かを手放して、変化を起こし、状況を改善したことがありますよね。
成長には、変化を起こすことが含まれています。
手放すことは成長のうえで必要なもの。
どうも、今回の私の車の件は、今までの自分の古い考えを手放し、新しいものを受け入れ、成長するためには必要なことのようです。
「こら、勝政。いったん下まで降りてこい!」
今週末、母親と一緒に神戸にある祖父、祖母の墓参りに行く予定なのですが、私のがばいばあちゃんから、こう言われているのかもしれません。
院長 野村