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命をつなげるビザ

2012年11月05日

“シンドラーのリスト”

 

私が一番好きな映画です。

 

あのスピルバーグが監督をした映画で、アカデミー賞も受賞した作品です。

 

しかし、ナチスの迫害を描いた戦争映画で、見る人によっては耐え難い描写もあり、なぜこの映画が一番好きなのかと言われることもありました。

 

ご存じの方もおられると思いますが、主人公のシンドラーは善と悪を持ち合わせた男で、それゆえに葛藤するというストーリーです。

 

私利私欲のためにユダヤ人を道具として利用していたシンドラーは、人の心に触れ、自分自身の心も変わっていきます。

 

命を救った大勢のユダヤ人に見送られながら去っていく最後の場面で、彼が語る言葉が、私の心の奥にあるものに響き、なぜか涙が止まりませんでした。

 

初めてこの映画を観て、「シンドラーのようになりたい」と純粋に思った時から20年。

 

今になってその気持ちが本当なのかどうか問われているような気がします。

 

 

実は日本にも、 ”日本のシンドラー” と呼ばれるような生き方をした日本人がおられたことを、最近知りました。

 

 

久々のブログなので、かなり長くなりますが、 ”日本のシンドラー” お話しをご紹介したいと思います。

 

 

 

 

1940年7月27日の朝のことである。

バルト海沿岸の小さな国リトアニアの日本領事館で領事代理をしていた杉原千畝(すぎはらちうね)は、領事館の外がいつもと違って騒々しいのに驚いた。

窓の外を見ると建物のまわりを200人にも上る人々が、黒山のようにうめつくしていた。

「ポーランドから逃げてき た人たちのようです。領事にたってのお願いがあると言っています。」

リトアニア人の館員バリスラフが言った。

そこで、千畝は、英語かロシア語の話せる5人の代表者を館内に招いた。

5人は思いつめた表情で、口々に話し始めた。

「私たちは、ポーランドに 住んでいたユダヤ人です。このままではナチス・ドイツにつかまって殺されてしまいます。すでに多くの仲間が、収容所に送られ殺されたと聞いています。ソ連(今のロシ ア)のシベリアを通って日本に行き、アメリカやイスラエルにのがれるしか、助かる道はないのです。」

外交官として各国の事情に詳しい千畝は、ヒトラーが、ユダヤ人から職業を奪い、収容所に入れて強制的に働かせ、その上みな殺しにしようとしていることやオランダやフランスがドイツに敗れたた め、ユダヤ人たちが、これらの国々を通ってアメリカに逃れることができなくなってしまったことを知っていた。

「このままならば、領事館のまわりの人々は、いずれナチスにつかまって殺されるに違いない」

 

千畝はつぶやいた。

千畝は、一度、席を立って窓の外をのぞいた。

ユダヤ人 の数は朝よりも増え、何百人もの人が、音も立てず静かに待っているのが見えた。

千畝が席に戻ると、5人の代表は話を続けた。

「どうか、私たちに日本を通過するビザを発行してください。私達を助けてください。」

彼らはおびえた目で、祈るように千畝を見つめていた。 その悲しみと恐怖心がびんびんと千畝の心に伝わってきた。

苦しくなった千畝は答えた。

「どうか一晩だけ考えさせ てください。」

そのころの日本は、ドイ ツ、イタリアと軍事面で援助することを約束し合う「日独伊三国同盟」を目指してい た。

そのためドイツに敵対するようなことを外務省が許可しないだろうと千畝は考えた。

また、10人や20人でなく、これほど多くの人々にビザを発行することは、領事の権限では簡単にできないことでもあった。

しかし、千畝の子ども達は、窓の外でふるえているユダヤ人の子ども達を見て、

「パパ、あの人たちは殺されるの? パパは、きっと助けてあげるよね。」

すっかり、千畝を信頼しきったように話すのだった。

「どうしたらいいだろう?…ビザを発行してあげたいが……外交官の私は、日本政府 の命令にそむくことはできないし……」

その夜、千畝は、なかなか 寝つくことができず、まんじりともせずに時を過ごした。

深い暗やみに閉じ込められた思いで、考え、迷い、苦しんだ。

そして、やがてひとつの決断をくだした。

起き上がった千畝は、さっそく東京の外務省に長い電報を打った。

じりじりとして待つうちに返事が届いた。

答えは、「ノー」であった。

外を見ると領事館をとりまくユダヤ人は、いつの間にか千人を超えていた。

千畝は、あきらめきれずに2度3度と電報を打った。

しかし、答えは、

「ユダヤ人 たちは、日本からどこへ行くのか?その国の入国許可証 がない限り、ビザを出しては いけない」

つまり「ノー」 の返事であった。

それに加え、8月3日には、 ソ連がリトアニアを正式に併合したため、日本領事館にも8月中に退去するよう命令がきた。

日本の外務省からも 「領事館を早く撤収せよ。」 との指示が届いた。

ついに意を決した千畝は、妻の幸子に言った。


「私は、ビザを発行しようと思う。彼らを見捨てるわけにはいかない。人として、人間として大事なことがある。本省の命令にそむくんだ。外務省を辞めることになるかもし れない。分かってくれるね。 」

幸子は、うなずきながら言った。

「きっとそうなさると思っていました。私が信じた人ですから……。」と。

千畝が、領事館の外に出て、 「あなた達すべてにビザを発 行する」と告げた時、しばらくの沈黙の後、喜びの叫び声が上がっ た。

天に向かって手を広げ感謝の祈りをささげる人々、子どもをだき上げてよろこびを抑えられない母親など

「これで助かる」という思いが一気にはじけていた。

それからの1ヶ月間、千畝は 朝から晩まで1日300人を 目標に、ビザを書きつづけた。

1人1人に会い、氏名・ 国籍・住所・年齢、最終目的の国などを聞き、日付を入れ、サインをして、日本領事館の印を押す。

途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書き続けた。

そのような時、東京の外務省 から、

「至急リトアニアの領事館を閉鎖してベルリン(ド イツ)の大使館に移れ」という新しい指令が届いた。

「ビザを書き終わるまで領事館を閉鎖せず、このまま続けよう。」

千畝は、翌日も翌々日も朝から晩まで書き続けた。

指が疲れ、腕も疲れ、体はくたくた、睡眠不足で頭がもうろうとしてきた。

それでもなお書き続けた。

8月28日に領事館を閉鎖し、市内のホテルに移った。

ユダヤ人がやってきたので、 ホテルの中でもビザを発行した。

いよいよ9月1日の早朝、退去期限が過ぎ、ベルリン行きの国際列車に乗り込もうとした。

ここにもビザを求めて何人かの人たちが来ていた。

千畝は、窓から身をのり出し、 発車ぎりぎりまでビザを書き続けた。

ついに、列車がベルリンに向けて動き出した。

「許して下さい。私にはもう書けません。皆さんのご無事 を祈っています。」


千畝は、列車の窓から身をのりだし、涙ながらに人々に言った。

「ミスタースギハラ、私達は あなたのことを決して忘れません。必ず生きてもう一度お 会いしましょう。」

列車と並んで泣きながら走ってきた人々も、千畝たちの姿が見えなくなるまでいつまでも叫びつづけていた。

千畝が発行したビザは、2139通であると言われている。

そして、そのビザを持ったユ ダヤ人たちは、身動きが出来ないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけてロシアを通り日本に到着した。

敦賀や 神戸で数多くの親切な日本人に助けられ、無事にアメリカ やイスラエルなどの安全な国に行くことができた。

1947年、戦争が終わって日本へ帰ってきた千畝は、外務省から辞職の勧告を受けた。

「やはり命令にそむいて ビザを出したことが問題にされているのか」とも思ったが、

黙って外務省を去り、実業家としての第2の人生を歩み始めた。

そして、リトアニアでのことをいっさい人に話すことなく年月が過ぎていった。

その千畝にイスラエル大使館から電話があったのは、1968年8月のことであった。

あの時の5人の代表の1人、 ニシュリという参事官が在日イスラエル大使館に勤めてい た。

ユダヤ人たちは28年間も千畝を探し、ようやく彼を見つけたのであった。

ニシュリは、千畝に会うと、ぼろぼろになった1枚の紙を見せ た。

「ミスター・スギハラ、あなたが私を覚えていなくても、私は1日もあなたを忘れたことがありません。」

2人は、手をかたく取り合って涙を流し再会を喜んだ。

1986年、千畝は86歳でこの世を去った。

 

しかし、その前年の1985年、イスラエル政府は、「諸国民の中の正義の人賞」を千畝に贈り、 その偉大な業績を称えた。

 

 

                    “六千人の命のビザ”    杉原千畝 (すぎはらちうね)

 

 

 
先月、突然田舎に帰省してきました。
 
というのも、最近毎回ブログに登場している82歳の母が肺炎で入院したためです。
 
義理の姉から病状を聞いて、大丈夫かなと思って帰ることもどうしようかと思ったのですが、めったに病気をしない人なので、なんだか気になってしまい、また10年前に突然亡くなった義理の父のことを思い出して、帰れる時は帰ろうと思いました。
 
肺炎は思った以上に重症で、かなりきつかっただろうなと思いましたが、熱を上げて寝ている母の枕もとにあったものは、なんと “帳簿とそろばん” でした。
 
「今までにこんなにきつい病気をしたことがない」という母が、従業員の給与計算のために、家にあった帳簿とそろばんを持って来てもらって、経理をやっている姿を考えた時、82歳のおばあちゃんも “小さなシンドラー” だったようです。
 
けれど、「もうそろそろ無理はできんぞ」というと、今まで気合で生きてきたような母は、すんなりと「そうやな、もういろいろとやめようかな」と。
 
あまりにもあっさりだったので、少し驚きました。
 
自分がどのような立場に置かれているかを考え、これ以上は無理はできないと判断すると、決断が速い。
 
けれど、「やっぱり田舎で働く場所を持つということは大事なことじゃけえ、工場は辞められん」とひと言。
 
 
“誰かの役に立つ”
 
 
始まりは何であれ、最終的には誰しもそこに ”やりがい” 感じるのかもしれません。
 
 
近いうちに、久々にシンドラーに会ってみたいと思います。
 
 
どんな気持ちになるか楽しみです。
 
 
                                      院長 野村
 
 

 

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