24年前の7月14日。
暑い夏の日、私の父はこの世を去っていきました。
私の父は小学校の教師でした。
家が貧乏だったため、父は大学には行けず、師範学校に通い教員の免許を取りました。
父は、そのことがコンプレックスだったのか、大卒の教師には負けないといって、他の教師にはない違うものを求めて、いろいろなアイデアを出して教育をしていたようです。
そういった努力が報われたのか、当時の文部省の派遣でアメリカへ行くなど、田舎の教師にしては情熱的だったということは覚えています。
しかしその一方で、暴飲暴食、喫煙もあり、糖尿病になってからは、医者から注意され、タバコはやめることはできたのですが、お酒だけは無理でした。
もともと性格も豪快な人だったので、お酒を飲むといつも大変なことになっていました。
家で父がお酒を飲んで大変なことになると、母がじっと耐えてる脇で、何とも言えない怖さと怒りを、子供ながらに感じていました。
そういったことからも、私はとにかく父が嫌いでした。
私は3人兄弟の末っ子で、兄とは年が18、16歳離れており、物心ついたときには、兄二人は家にはおらず、そんなことなど他に話すひともおらず、誰かに言っても仕方がないと思っていたので、普段からも悩みなどは誰にも言わないようになりました。
おかげで素直じゃないひねくれた性格になってしまいました。
父は私が幼少期の時には、よく体調を崩して入退院を繰り返しており、田舎には十分な治療が受けられる病院はなかったため、母の付添いもいることからも、私は親戚にしばらく預けれられることがありました。
でも、私はその時がとても嬉しかったんです。
親戚には兄弟よりも年が近いいとこがいたので、一人じゃないような楽しい気分になれたし、親戚みんな私を可愛がってくれたので、全く寂しいなんて思ったことはありませんでした。
その後、父は、私が小学校4年生の時に教師を辞めました。
体調の悪いにも関わらず、相変わらずお酒が過ぎるのか、それからも母親の苦労がなくなることはありませんでした。
ある時は、あまりにも母がかわいそうなので、別れた方がいいと長男に連絡したこともありました。
ですので、私が中学3年の時、父が脳出血で危ない状態になっても、不思議と冷静でいる自分がいたことを覚えています。
そして、高校3年の春、父は再び脳梗塞で倒れました。
2回目の脳血管障害でしたので、飲み込みもできなくなり、自分で痰も出せない状態だったため、気管切開を行い、母はそんな父に付き添って、一生懸命吸引器を使って痰を取っていました。
私は一人暮らしのような生活を送りながら、夏の期末試験の最終日を迎えたその日、試験が無事に終わるのを待っていたかのように、次男が学校まで私を迎えに来ていました。
兄の姿を見た時、私はすべてを察しました。
兄も私には「家に帰ろう」としか言いませんでした。
自宅に帰り、父の顔にそっとかけられた白い布を手に取った時、いろいろな思いが駆け巡りましたが、絶対に涙は流しませんでした。
しかし、母から「お母ちゃんの努力が足りんかった。勝政、ごめんな」と謝る言葉を聞いた時、どうしようもなく涙が止まりませんでした。
一番辛い思いもしたはずなのに、母は、最後の最後まで父を支え続けました。
こんな母を幸せにするために、自分はどう生きる必要があるのか。
この時、初めて自分の将来を本気で見つめました。
この町に病院があったら、どれだけ母は助かっただろう。
もう父を助けることはできないけれど、自分がこの町に医療を持ってくることができたら、離れていた父との距離が少しでも近くなるかもしれない。
今日は、父の命日でもあり、私が医師になるきっかけになった日でもあります。
母に電話で「今日はお父ちゃんの命日やね」と言ったら、「毎日墓参りしているから命日なんて忘れとった」と言われました。
確かに母には毎日が命日のようなものなので、なるほどなと笑ってしまいましたが、もうずいぶん時間が経ったのだと感じました。
しかし、私はあの時に決めたことはまだ忘れてはいません。
母が住む過疎の町に、どんなに時間がかかってもどんな形であっても医療は必ず持って帰ります。
“医療から街づくり”
これが、教師である父が命をかけて教えてくれた私の使命です。
院長 野村