最近、娘が「おかね」という言葉を覚えました。
お寺参りに行くときのお賽銭として毎回、私の母が「はい。おかね」と言って渡すので覚えたのでしょう。
しかし、まだ2歳なのでその価値はわかりません。
ただ、大人の真似をしてお賽銭をいれ、手を合わせる一連の行動を楽しんでいるようです。
おかねをどのように使うのかなど価値はわかっていませんが、お金がないと彼女が楽しんでいる一連の行動が成り立たないので、大切なものだという意識はあるようです。
さて、みなさんにとってお金は大切なものですか?
どのくらいあったら幸せですか?
わたしはこの問いかけに、「・・・・」でした。
大切なものだけど、どのくらいあったら幸せかと考えても答えはでてきませんでした。
ここである女の子のお話を紹介したいと思います。
女の子は生まれながらにして知的障害を持っていました。
幼稚園は近所の子と一緒に通っていましたが、小学校に上がると学校を休みがちになって、だんだん行かなくなり、4年生に上がるころ両親は話し合って養護学校に通わせることにしました。
養護学校には、寮があってもちろん家に帰ることはできませんでした。
女の子は、その日習った新しいことを毎日毎日、電話で母親に報告しました。
ほんの少しずつだけれど、女の子は沢山のことを学び、覚えていきました。
ある日の算数の授業の時です。
先生が、「ここに、500円玉、100円玉、10円玉の3つがあります。どのお金が1番大きいですか?」
と質問しました。
すると、女の子は「10円玉」と答えました。
先生は「500円玉なのよ」と教えますが、何度同じ問題を出しても彼女の答えは「10円玉」
先生は「500円玉、100円玉、10円玉は500円が沢山ものが買えるのよ。だから1番大きいのは500円玉でしょう?」と言いますが、女の子は「10円玉」と言います。
先生が「どうして、10円玉が1番大きいと思うの?」と聞くと、
「10円は電話ができるお金。電話をすると、お母さんの声が聞けるのよ」
と答えました。
お金はもちろん大切なものだと思います。
なくてはならないものだとも思います。
しかし、いくらでどのくらいの価値があるかを決めるのは私たちではないでしょうか。
たくさん費やしたから価値あるものでしょうか?
それよりも、自分の大切なものに費やすことができたとき、金額は少なくても自分にとって価値あるものになるのではないでしょうか。
それは、お金に限ったことではないと思います。
時間や空間も何に費やすかによって、ただ単に通り過ぎてしまったり、意味あるものになったりするのではないでしょうか。
500円分の10円玉があれば、お母さんの声を長く聞くことができますが、500玉では入りません。
女の子にとって、10円で聞くことのできるお母さんの声、お母さんと話す時間は最高に大切なものだったと思います。
安くても高くても、時間が長くても短くても使い方でどんな風にでもできます。
自分次第ですね。
これから過ぎていく人生の中で、1番若い今!!
私は、誰かに会うために、誰かと過ごすために、誰かが喜んでくれるように、誰かと一緒に笑顔になれるように、自分を費やしていく事ができたらいいなと思います。
みなさんは、何をどんなふうに費やしていきますか?
看護師 森